私には門限がある。夜12時なんて生ぬるい時間ではない。

心配性な父は、去年の春、大学生にもなる私に毎日夜10時までの帰宅を義務付けたのだった。

下手したらそこらの高校生よりも厳しい条件だけれど、もちろん一秒たりとも遅刻は許されない。大学から家まで電車でおよそ一時間。全国の大学生、とりわけ早大生なら、飲み会やサークル活動、終わらない課題があろうとも夜の九時には高田馬場駅を出ていなくてはいけないことが、どれほど困難なことであるか十分理解していただけるだろう。

さて、多くの早大生同様入学式直後の“ビラの雨”の洗礼にあった私は、持ちきれないほどたくさんのビラの中からここぞと思った団体を見つけ出し、無事入会した。

私の所属するサークルは、毎週水曜の6,7限の時間に活動した後、高田馬場近辺の居酒屋に拠点を移してアフターと称した飲み会を開催する。

もちろん自由参加ではあるが、その場で同期や先輩後輩と仲良くなることは非常に多い。サークル活動の終了と同時に帰り支度を始めなくてはならない私にとって、アフターは憧れの時間だった。

アフターの開催場所の中で、非常によく耳にする店名があった。「べにたいよう」だ。このサークルのお気に入りの居酒屋なのかと思っていたら、開催場所がそこだと知った先輩たちは途端に「また「べに」かよ~」「ほかにも店あんだろ」と文句を言い始めた。

じゃあ行かなければいいのに、と怪訝に思ったが、それでも先輩たちはどこか嬉しそうに謎の店「べにたいよう」に集合するのだった。

 

あるとき先輩に「べにたいようってそんなに素敵なお店なんですか?」と聞くと、先輩は苦笑して、「普通の、いや、普通よりちょっと暗めの中華料理屋だよ。いつの間にか俺たちのサークルの定番の店になっちゃったんだよね」と答えた。普通よりちょっと暗めの中華料理屋にこぞって集まる少し不気味な集団に属していることに一抹の不安を覚えたけれど、私の「べにたいよう」への圧倒的な好奇心は高まるばかりだった。

初めて「べにたいよう」に足を踏み入れた日のことを、よく覚えている。

大学が長い夏季休業に入り、サークル活動の時間も早まったため、アフターの始まる時間も大幅にずれ込んだ。

「今日のアフターは「べに」でーす。六時に予約とってまーす」先輩がそう声をかけると、メンバーは活動をやめおもむろに立ち上がり、各々が店に向かって歩き始めた。私も友人に連れられて、じっとり汗ばむ外気温の中、日も暮れゆく「べにたいよう」までの道を急いだ。

高田馬場駅早稲田口からほど近い、派手な電飾のパチンコ店の角を曲がった奥に、その店はひっそりと姿を現した。なるほど、漢字表記は「紅太陽」なのか。大きな横長の黄色い看板に赤い文字ででかでかと「紅太陽」と書いてあるにもかかわらず、この存在感のなさはどうしたことか。

看板のすぐ下にある地下への階段は、私の履く23.5センチのスニーカーより踏み面が狭いくせに、設計ミスかと思うほど急勾配だった。

恐る恐る階段を下り視線の先の引き戸を開くと、香ばしくて少し苦い香りが鼻をついた。地下の店内は、薄暗く、ひたすらにたばこ臭くて、おもわず顔をしかめてしまった。厨房には台湾人夫婦がいて、手前のカウンターでは小学五年生くらいの男の子が宿題とおぼしき算数のプリントに向かっていた。壁に貼られたたくさんのハイボールの広告、予約した人数には若干足りない椅子に、若干多い小さな取り皿。サラリーマンらしき数人の先客が顔を突き合わせてなにやら話し込んでいたが、平日の午後六時台だというのに既にそこそこ出来上がっているように見えた。

 

奥の方の席に詰めて座ると、先に到着していた先輩たちが慣れた様子で料理と飲み物を選び始めた。鶏肉とカシューナッツ炒めは“外さない”らしい。片言の日本語を話す無骨な台湾人の店員が運んできたジョッキが各々に渡ったところで、幹事長が乾杯の音頭をとった。「夏休みなのに来てくれて偉いよ!今日もおつかれかんぱーい!」言い終わるか終わらないかのうちに、がちんがちんとジョッキの触れ合う音がした。ほかの人にとってはおなじみの店で何度も聞いてきた掛け声なのかもしれないが、私は、憧れのアフターin紅太陽が私進行していることに何かしらの感動まで覚えていた。アフターが始まると、滅多に顔を出さない私は珍しがられ、同期や先輩にたくさん話しかけてもらえた。サークル活動を通じてしか話さなかったメンバーとも、活動中より深く互いのことを話した。紅太陽の薄暗い照明とつくりつけの狭いソファが、私たちのアフターを加速させた。

しかしどんなに楽しい時間を過ごしていようと、私には「門限」という鉄のおきてがあった。

腕時計の針が九時を指す直前に私は立ち上がり、「そろそろ失礼します」と言って店を出ようとした。「早くない?まだ九時だよ」と教えてくれた同期に「ごめん、門限だから」と言い残し、急勾配の階段を駆け上った。

 

こんなに名残惜しい気持ちになる家路は初めてだった。駅の構内を早足で移動する間も、紅太陽での時間を思った。もっとみんなと一緒にいたかった。聞きたいことも話したいこともあった。食べたいものも飲みたいものもあった。毛嫌いしていた副流煙でさえ、みんなとあの場に居続けることができたなら多少吸ったってかまわないと思った。玄関の窓から漏れる明かりが見えたとき、私は人生で初めて門限に間に合ってしまったことを後悔した。

それ以来私も、他のサークル員同様紅太陽のファンになった。相変わらず門限はあったが、紅太陽で開催される飲み会はなるべく出席したいと思った。同期や先輩だけでなく、在籍年度の被っていないOBOGと話ができるのも紅太陽での飲み会ならではだった。しかし私も、口ではさもこなれたサークル員であるかのように「またかー」などと小気味よくのたまっていた。

しかも後々判明したことだが、実は「紅太陽」は「べにたいよう」ではなく「こうたいよう」と読むらしい。それを聞いた時、驚きのあまり「紅太陽 高田馬場」で検索したところ、フリガナ部分の表記はしっかり「こうたいよう」と書かれていた。こんなにお世話になっているのに団体規模で店名を間違えていたのかと思うと、恥ずかしくも面白くて友人とげらげら笑ってしまった。

緊急事態宣言が出されたとき、私は大学を思い、高田馬場という街を思い、そしてあの台湾人家族を思った。故郷から遠く離れた場所で小さな飲食店を経営する彼らに、明日はあるのかと考えた。

 

学生注目。今日はお前らに頼みたいことがある。

「コロナ(太陽)」の名を冠する馬場の名店、紅太陽の活気を取り戻してほしい。いや、紅太陽は決して活気づいてはいなかったかもしれないけれど、せめて無口な台湾人家族の作るおいしい鶏肉とカシューナッツ炒めをつつきながら、換気の悪いあの店で、たばこの煙をくゆらせながら友人とこころゆくまで笑ってほしい。そうしてあの店が、私の、だれかの、憩いの場として返り咲いてくれたら、私がこの文を書いた十分すぎる意味になる。
事態の一刻も早い収束と、紅太陽の存続を、切に願う。

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SHOP DATA

紅太陽   

住所:新宿区高田馬場2-15-10 B1F

営業時間:11:00~15:00 17:00~23:00

年中無休

TEL.03-5273-9828

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